フリー・インプロヴィゼーションの音楽以前、音楽以後
ベイリーは記す。 ”歴史的には、フリー・インプロヴィゼーションは他のいかなる音楽よりも早くから行われていた ー 人類最初の音楽演奏はフリー・インプロヴィゼーション以外ありえなかったはずだ”*1
そう、音楽以前にあるものは人間の感覚と音の関係性を彩るだけの即興演奏だけだったに違いない。が、それがいつ「音楽」という名を与えられたか、認識されたかわからないけれども、音楽以前から生まれた即興演奏と、音楽以後から生まれた即興演奏は大いに違うところがあるのではないか、と私は思いました。フリー・インプロヴィゼーションの音楽以前と音楽以後では意味合い、内容も違うのではないか。
私の知る、我々文明人とかいうやつは「残念ながら」ほぼ生まれた時、もしくは生まれる前から音楽にさらされている。音楽への感受性は人それぞれだけれども、「即興」となればそれは音楽を前提としたものとして始まるだろう。きっと最初は音楽としての即興をやろうとするし、そこにとどまる者が大半でしょう。
ある種の人間は音楽そのものについての疑問を持ったり、むしろ既存の音楽が嫌いであったり、音楽の良さというものを考えたり、して、先人を見つけ出しそこへ行くか、はたまた天然に音楽よりこのほうが面白いとやってしまっているか、フリー・インプロヴィゼーションにたどり着く。しかし、それらはどうあがいても音楽以後のフリー・インプロヴィゼーションであろう。そもそも私もそうだけれども、音楽の為に作られた「楽器」というものを使う時点で、音楽以後と言える。自作の楽器、であってもやはり音楽以後の楽器であろうし、楽器を使わずとも、身体には音楽が染み付いているでしょう。そこから「フリー」になろうとすれば、音楽を踏まえたフリーであり、以前書いた Derek BaileyからのFree improvisationのfreeについて にあるように既存の音楽から逃れる、解放される、という意味合いの即興になるでしょう。非音楽というものを意識したとて、それは音楽ありきなのである。
音楽以前にあった即興演奏にはそのフリーは無いはずである。古くにある「自由」の意味、自ら(みずから、おのずから)出てくる制約のないものではなかったか。と思うのです。
さて、本当の意味での「自由な即興」はできるのかできないのか。
*1
デレク・ベイリー,インプロヴィゼーション,訳 竹田賢一、斎藤栄一、木幡和枝,工作舎,1981.
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