Derek BaileyからのFree improvisationのfreeについて

私は仏教や禅(仏教の一部ですが)荘子や老子、インドの思想、など東洋哲学に興味があります。

17年ほど前、デレクベイリーを知り、イディオムのない即興という言葉、そしてその音を聴いた時、ベイリーの即興には東洋的な平等の概念、普段我々が使う人間にのみ適用される 平等という言葉でなく、上も下もそのものが存在しない、価値というものも差別も区別も無い世界観、があるのではないかと期待しました。
実際の内容は違い、ベイリーの著書「improvisation(即興の彼方に)*1」を読めば分かる通り、色々なジャンルの音楽家が演る即興の内容を吟味した結果、 それはイディオムに依存した「フリーな即興」とは言えないとして、新たに「フリーインプロヴィゼーション」というものはどういうものかと考察し作り出したのでした。 しかし、イディオムのない即興と言われますが、ベイリー自身がウェーベルンを参考にした、と告白してる通り、アブストラクトに調性を破壊した現代音楽からの影響があるもので、それは「フリー」と言う枠組みを目指した、新しい「フリーインプロヴィゼーション」というイディオムをつくり上げたものではなかったかと思います。

今まで意識して「自由」という言葉を使わず「フリー」としてきました。それは鈴木大拙による自由についての話からの影響で、著作の「東洋的な見方*2」から引用いたしますと、

(西洋のリバティやフリーダムには、自由の儀はなくて、消極性を持った束縛または牽制から解放せられるの義だけである。それは否定性を持っていて、東洋的の自由の義と大いに相違する)

まさしくベイリーのフリーは鈴木大拙が言う通りの既存のイディオムからの解放を目指したものだったと思います。鈴木大拙の言葉は続きます。

(自由はその字のごとく、「自」が主になっている。抑圧も牽制もなにもない、「自ら[みずから]」または「自ら[おのずから]」出てくるもので、他から手の出しようのないとの義である。自由には元来政治的意義は少しもない。天地自然の原理そのものが、他からなんらの指図もなく、制裁もなく、自ら出るままの働き、これを自由というのである。)

いまとなっては自由もフリーもかわりのない、鈴木大拙のいうフリーダムの意味で使われていますが、私はこの鈴木大拙の言う「自由」を求めて即興を模索したい。もっと自然で場にふさわしい、というより場そのものになってしまうような、、とこれ以上はぼんやりした妄想になりそうなのでやめます。

*1 デレク・ベイリー,インプロヴィゼーション,工作舎,1981.
*2 鈴木大拙、上田閑照,東洋的な見方p64,岩波文庫,1997.

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